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カンロニン:用法用量を守って正しくお使いください

I will be able to teach zazen, the sitting-meditation, to everyone in English.都内にある禅宗寺院の中の人。仏教、イベント、本、教育、組織、アナログゲームなど、日々考えていることを綴ります。現在仏教になじみのある方、まったく興味のない方、みなさまに読んでいただけたら幸いです。

禅語 無功徳~選択

お寺で対話する夜 第二十夜は、浅草 緑泉寺にて開催。

◆第二十夜のテーマは "選択"◆

私たちは毎日様々な選択をしながら生活しています。

今日の昼ごはんは何にしようか?
今度の休みにどこに行こうか?

過去も様々な選択をしてきました。

どこに住もうか?
どこの会社に入ろうか?
どんな学校に行こうか?

今日あなたはどんな選択をしてこの「対話する夜」に来ましたか?
普段毎日行っている「選択」について対話をしてみませんか?

あなたはなぜ今日ここにいるのですか?

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禅とは、お釈迦様のさとられたこころを伝えるもの。
禅語とは、その禅のこころを文字で表わしたものです。

むかしの中国・梁の武帝は仏教をとても信仰しており、仏教やお坊さんのために色々なことをしていました。たくさんのお寺を建てたり、お経を写したり。
武帝はあるとき達磨大師(ダルマさん)という方が、インドより中国まで来たと耳にします。そこで宮中まで招き達磨大師にお聞きします。
「これだけわたしは仏教のために頑張っている。この私にはどんな功徳があるのでしょうか?」
すると、達磨大師は答えたのです。「無功徳」と。

武帝には、本当に功徳が無い・・・わけではありません。
功徳(見返り)が有ることにこだわる武帝を、達磨大師は『捨てよ』と示すのでした。

禅語にも色々と有名なものがありますが(喫茶去など)、「無功徳」もそのひとつです。ワンフレーズでふつーの人にも使い?やすいのですが、そもそも禅語とは“その場かぎりの言葉”です。「無功徳」ももちろんのこと。
さて、達磨大師武帝にたいして「無功徳」と言うのは、どれだけ恐ろしいことでしょうか。武帝は王様です、怒りにふれれば殺されます。では、なぜ達磨大師武帝にこのようなことを言うことができたか。

それは、武帝を尊敬・信頼・信用していたからこそ。“殺しはしまい”という尊敬・信頼・信用ではありません。“殺されてもよい、死んでもよい。しかし武帝はこの心をきっと分かるはずである。”という尊敬・信頼・信用です。
本当のことを言うことができる、それは尊敬・信頼・信用のベースがあるからこそ(武帝達磨大師の問答はこの後も続いていくわけですが・・・)。


禅語とは“その場かぎりのもの”ですが、私たちの口から出てくる言葉も“その場かぎり”なはずです。“その場かぎり”というと使い捨てのイメージが強いですが、二度とは使えない、と言えるでしょう。
“その場かぎりもの”の表現は、直感でしょうか。理屈でしょうか。視点を変えたからでしょうか。

その選択ができるだけの、相手。
あなたには、本当のことを言い合える相手、また自分がいますか?


宗派・仕事・キャラクター、さまざまな人間や自分の発見も楽しい“お寺で対話する夜”。次回もお楽しみに。

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