カンロニン:用法用量を守って正しくお使いください

I will be able to teach zazen, the sitting-meditation, to everyone in English.都内にある禅宗寺院の中の人。仏教、イベント、本、教育、組織、アナログゲームなど、日々考えていることを綴ります。現在仏教になじみのある方、まったく興味のない方、みなさまに読んでいただけたら幸いです。

受けるより与える方がさいわいである~盂蘭盆

お寺で対話する夜第十三夜は、正徳寺にて開催。住職 平松理薫さんがタイムリーな話題として、お盆についてのお話し・問いかけがなされました。

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写真は主催の非お坊さん。

いま日本での「お盆」のおこり、元ネタになっているお話し。それが「盂蘭盆経」というお経です。

ナザレのイエスに12人の使徒(高弟)がいるように、お釈迦さまにも10人の弟子(十大弟子)がいらっしゃいました。そのうちの一人、目蓮尊者にフィーチャー。
盂蘭盆経というお経では、目蓮尊者(もくれんそんじゃ・モッガラーナ)という方が主人公となり物語が進みます。

登場人物は、三人。目蓮尊者、(目蓮尊者の)亡きお母さん、お釈迦樣です。

夏の修行中、目蓮尊者は「神通力」という自身のスーパーパワーに気付きます(六神通 - Wikipedia)。
そして、神通力の一つ。「天眼通」という真理を見通す目で、死んでしまったけれども、いま自分の母親はどうしているのかを見るわけです。
そこで、母親が餓鬼道に堕ちていることを知ります(餓鬼 - Wikipedia)。
「天眼通」とは真理を見通す目のことですから、なぜ母親が餓鬼道に堕ちているのかも分かるわけです。
その理由は、お母さんが目蓮尊者のことを大切に思ったがために、慳貪(けんどん・物を惜しんでむさぼること)の行為をしていたから・・なのでした。
他人の子どものことは考えず、自分の子どもの健康だけを考える。成長するにつれ、小学校・中学校・高校・大学と良いところへと思い、他人の子どもを排してでも、無視してでもと、必死の努力をする。しあわせな結婚をしてほしい、安泰な会社に就職してほしいと、一生懸命に願う。
普通の母、健全な母のすがたに見えますが・・・仏教ではひとつの慳貪の姿と見るんです。

目蓮尊者は「神通力」を持っていますから、なんとかお母さんを助けようとします。自力で。
でも出来ない。そこでお釈迦樣に相談します、母を救うためにはどうすればよろしいでしょうか?と。

『7月15日、修行の最後の日。すべての修行僧に施し(もてなし)をすれば、母にも先祖にもその施しは届くであろう』

というわけで、目蓮尊者は願いをおこし、施しをすることで、修行僧たちによって母を救ってもらうことができたのでした。


このお話しには色々な教訓を見ることができますが、二つのポイントを提示しました。
二つ目で、平松住職から「恩送り・ペイフォワード」についてお話しがされたのでした(恩送り - Wikipedia恩送り | くらしの良品研究所 | 無印良品)。

みなさんは今までどのようなご縁で過ごされてきましたか

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グループにわかれたあと、「縁」「恩」について対話がなされていたようです。「恩」についてピントこなくって「縁」ならまぁ。そもそも「恩」ってなによ。「恩おくり」からの対話、などなど。


仏教というのは「関係」という視点でものごとを見ていきます。
私とまわりっていろんな「関係」があるよね。「関係ない」という「関係」もあるよね。
それが「縁」です。

「恩」とは、“今につながる「縁」について考えること”。
「命があって当たり前」「金はらってるんだから良いだろう」という考えかたは関係そのものを否定するもの。自分のことしか考えていない、まわりを見えていない。
「関係ない」という関係性まで大切にする、それが「恩」です。


・・・だからといって余裕がない。恩のボールを受けていることに気付こうにも余裕がないと無理じゃないか?パスをまわすのは難しいよ、いまはキツイ。
そんな意見が共有のときに出たと思います。


大人の財布を持ってから。余裕が持てるときを待てばいいのかもしれません。
でも、もっと能動的にいきたい。そんな人に、この言葉たちを紹介します。

  • 「受けるより与える方が幸いである」

ナザレのイエスが発した言葉として、使徒パウロ登場の近辺で出てくる言葉です。

  • 「与えることによって、なぐさめを得る」「与えることとは許すこと、なぐさめとは出番のことである」

つらくとも、与えることで余裕を生むことができるのではないか。そんな言葉なのだと、ぼくは感じています。
目蓮尊者が修行僧(これからの人間・自分の子どもでもない人たち)に施しをしました。まさに、与えることで出番をいただくことが出来ることの表れかと。
まったく同じことを、相手に返さなくてもいい。ぜんぜん違うことを、ぜんぜん違う相手にパスすること。すると、なぐさめを得ることができる。させてもらった、という出番。あらたな関係をつくることができた喜び。


「恩」と「縁」がつながらないでしょうか??