カンロニン:用法用量を守って正しくお使いください

I will be able to teach zazen, the sitting-meditation, to everyone in English.都内にある禅宗寺院の中の人。仏教、イベント、本、教育、組織、アナログゲームなど、日々考えていることを綴ります。現在仏教になじみのある方、まったく興味のない方、みなさまに読んでいただけたら幸いです。

喫茶喫飯~きっさきっパン

「喫茶喫飯」という禅語があります。
この禅語の出典についてはハッキリしていません。すこしググれば分かりますが、様々な禅師が「喫茶喫飯」について語っています。
おおもとの出典が分からない・・というのは、「喫茶喫飯」とは当たり前の動作のことであり、かつ当たり前に言われすぎていて、元祖「喫茶喫飯」は存在しないよね・・と見るべきでしょうか。


「喫茶喫飯」を書き下せば「茶を喫し、飯を喫する」。「茶」や「飯」については、ふつうのティ・ティ的な飲み物、ご飯・食べ物、のことでしょう。

総持寺のご開山・瑩山禅師は「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」と自分の境界を述べられました。
境界については分からなくても、なんとなく言っている意味は分かりますよね。そして、当たり前すぎてそれがどうした・・といった印象を持たれるかもしれません。


ここでポイントとなるのが「喫」です。「喫茶喫飯」の「喫」は、ただの食べる・飲む、ではないようです。
中国語で「吃(喫)」とは、食べる・飲む・(~に頼り)生活するという意味。まぁ「喫茶喫飯」を見ても、パッと思いつく意味かなぁと思います。
ただ・・(~に頼り)生活する・・について考えてみると感じられるところがあるかもしれません。

どこで生活するか。・・その場所は?
「喫」には、お前のいる場所はどこだ!・・という深い意味があります。

喫茶喫飯 - 雲水喫茶の日替りマスター!!|雲水喫茶
星覚さんの言うように“本能を感じる時”“本性があらわれてしまう”その時。「喫」とは、そのタイミングにおける大切さを説いているわけです。


パンを食べたり、祈ったり。第十一夜では本覚寺副住職・守長師の導きをたまわりました。

パンやウーロン茶は、ただそこにあるだけでは物体に過ぎません。
しかしそこに、「喫」という行為によって、私とパン、という関係性が出来上がります(「見て、持ち、口に入れ、かみ、飲む」)。

毎日の当たり前は慣れることで高速化できます。そして、慣れていることに私たちは無意識です。ながら作業(+テレビを見ながら、+スマホをいじりながら、+新聞を読みながら、+音楽を聴きながら)は良い例でしょう。

ながら食事では、食べ物・飲み物のおいしさは感じられません。噛むことも忘れ、ただ口に突っ込んでいるだけ。
第十一夜にて、五観の偈とともにパンを食べるという行為をしました。それは、私とパン、という関係性に意識を向けることでした。
そして自分がこうありたい、他者にこうあってほしい、と祈りました。


お寺や神社でお参りするときに、まず心を落ちつかせて、そっと手を合わせ・・・というのは、私と**という関係性に意識を向ける準備です。
そして、その関係性に意識を向けることは、**につながる自分とはなにか?という問いです。

このような自分への振り返りのチャンスは日々あるはずなのです。
でも私たちは特に考えもなく、神社に行ってはお賽銭を投げ、とりあえず食事の前に手を合わせ、誰かに会ったら頭を下げています。

それは何故か。
慣れているから。当たり前すぎて、無意識で、できてしまうからです。
そして、慣れているからこそ、ふだんの自分がそこに出てきます。
「喫茶喫飯」
そのタイミングにおける大切さを、ふだんの自分が出てくる「そこ」を、もっと見つめてもらいたいと思います。
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「ていねい」というワード。
正しく向き合うこと、丁寧すぎること、小さい・こまかいこと、毎日必ずすること、こだわり、しつこさ、好きなこと。
一年のうちの一日を「向き合うこと」に充てなくても。自分自身をいたわるような。それも日々の生活のなかで。ふだんの自分を真摯に見つめる、ちょっとした工夫が出来れば・・。
人生はきっとステキなものになるかもしれません。

あなたが日々の暮らしの中で
ていねいに取り組んでいることは何ですか?

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