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カンロニン:用法用量を守って正しくお使いください

I will be able to teach zazen, the sitting-meditation, to everyone in English.都内にある禅宗寺院の中の人。仏教、イベント、本、教育、組織、アナログゲームなど、日々考えていることを綴ります。現在仏教になじみのある方、まったく興味のない方、みなさまに読んでいただけたら幸いです。

高校を卒業する君たちへ

いわゆる“社会”に出ていく君たちに、ひとつの考え方を示してみた。偉そうに感じたかもしれないけれど、こういうやかましい人間もいるのだと思ってほしい。うるさいことで、ひっかかってくれることを願う。

高校を卒業する君たちへ

死とは、取り返しのつかない、そして、起きてみなければ分からないことであるが故に、親しい人の死という事実は、私たちに大きな問いを投げかけます。
それは、「今まで共にすごしてきた時間はいったい何だったのか?」という問いです。
いままでの時間の意味を問うているわけですが、その質問の答えは、いままでの時間そのものが答えとなります。
時間が人を癒やしてくれる。時薬(ときぐすり)と言ったりしますが、その効用は・・ほうっておけば治る、ということではないでしょう。時間とともに、自分の負った傷とうまく付き合っていくことの大切さです。


愛する家族や友人の死は、とても大きな出来事です。残された私たちにとっては心に大きな穴が開いたかのようです。どんな人でも愛する人の死に対して、心の準備など出来てはいません。まして私たちにとっては急な出来事ですし、目の前を過ぎたものの、どう扱えば良いのかと、今は呆然とするだけかもしれません。考えたこともなく、そのまま今日を迎えた人もいるでしょう。
そんな私たちの心を支えてくれるものがあるとすれば、ひとつには時間を考えてみます。
「今まで共にすごしてきた時間はいったい何だったのか?」という問いは、誰か答えを教えてほしい!、ということですが、その問いの本質はこの気持ちの裏にあります。誰かに教えてもらった答えは、本当の答えではなくて。この自分の、どうにもならないモヤモヤとした複雑な気持ちは、自分自身でしかスッキリさせることはできない。
そのためには、共に過ごした時間を、これから歩む時間を、大切に考えることです。それが本当の答えです。


過去と現在と未来という、時間。過去は過ぎ去った事実であり、未来は未だ来ない事実と言えますが、いま目を閉じて思い出し、想像してみれば、過去も未来も現在という一瞬の時間に現われることに気付きます。この時間は、過ぎ去った事実も、未だ来ない事実も、私という存在のなかにいるということです。
過去とは過ぎ去って無くなることを言うのではなくて、今この場所に蘇る可能性のことです。未来は今ここに消えます。未来は一瞬一瞬、今へと変化するからです。


今という時間。私たちが自分たちの進む時間とともに歩んでいくということ。
その内容は「生きる」ということですが、その一つには、彼のことを懐かしく思い出し、語るということがあります。彼との接点をそれぞれに持っている私たち。その私たちが彼の命を引き継いで、生きているからです。なぜ私たちが彼の命を引き継いでいるのかというと、私たちが思い出し、語ることによってしか、彼のことを表現できないからです。それは、彼の時間は止まったままだという事実は、私たちだけが知っている事実となったからです。彼の時間を動かすことはできないのですから。


語ることが大切だと言いました。しかし、いくら彼のことを私たちが語ったとしても、彼のことをすべて語り尽くすことが出来るのでしょうか。きっと、彼は色々な場所でそれぞれに命を輝かせていたはずですが、私たちが知っている彼の姿は、人生の上のちょっとした接点でのこと。
彼の姿は、語っても語り尽くすことができません。家ではどうだったのか。学校ではどうだったのか。あの日は、どうだったのか。
こうして語れば語るほど、彼の姿を語り尽くすことができないんだ、と分かります。このことは落胆する事実ではありません。むしろ、すべてを語り尽くすことなどできない、という事実は、無限の広がりでもあります。そして、この無限の広がりや深さは、同時に、私たちの癒やしともなります。そうか、君はそんなに大きな存在だったのかと。


そんな大きな存在だった彼を語り尽くすことはできませんが、人生の上で彼とちょっとした接点をもったこの自分という存在を、語ることはできます。自分の負った傷とうまく付き合っていくこと。自分で自分をケアすること、と言ってもいいでしょう。


答えることの難しい問いを保持しつつ、閉じないでいること。
それが、諸行無常といわれるこの世界を生きる智慧です。
自分はだれの子供か?何をするために生まれてきたのか?
理不尽で納得できない事実をつきつけられたとき、確かなものとして自分自身に受け入れるためには、自分という存在を語り直すことが必要となります。
語り直しのポイントは、人それぞれに、日々たくさんあります。学校に入って、知らない人たちと学生生活をともにしていく。勤めに出て、年配の方々と切磋琢磨していく。パートナーを見つけ、家庭を育てる。
自分とは何者であるか語り直すということ。このプロセスは苦しい道のりを歩むようなものです。本当に苦しかったら黙ってしまうものですが、それでも語り直さなければ先へと進むことができません。
こうして文章を書いていますけれども、皆さんがそれぞれに語り直す必要があります。そんなとき、誰かの声に引きずられないように。わたしの思いはわたしだけの思いです。誰かがこう言ったから、ぼくもそう思う・・ではないのです。それは、諸行無常といわれるこの世界を、本当に誰かのために生きるということではありません。


彼との接点を持った自分という存在。その、自分とはなにかを語り続けるということは、彼の命を引き継いで生きていくということ。彼との接点をもつ自分とはなにか?というアイデンティティの語り直し。この語り直しは、癒やしであり、自分で自分をケアするという私たち皆が持っている、思いやりの心です。
あのときの自分はこうだったんだ、という語り直しをする。これが「生きる」ということ、自分で自分をケアすることだと思う。そのために、語り尽くすことができないほど大きな存在だった彼が、きっと助けになってくれる。そして、私たちが自分の人生を歩むということが、彼が“祖先”という大きな存在へとなる助けにもなってくれるはず。


もう彼の時間が、独立として、動くことはありません。しかし私たちの時間は刻々と先に進みます。一年経った今、よく分かると思います。
彼の時間と私たちの時間が離れていくという、この事実を受け止めるためには、私たちは自分たちの進む時間と共に歩むしかないのだと思います。そして、私たちが時と共に道を歩むことが、彼のためにもなる。そんな私たちを見守る貴方が、未知なる道を歩むことにもなるのだと信じています。


もちろん、自分で自分をケアすることが出来ないひとだっている。そんなときは、まわりの大人に助けを求めてほしい。きっと助けてくれるはずです。ただ悪いやつらには気をつけて。

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