カンロニン:用法用量を守って正しくお使いください

I will be able to teach zazen, the sitting-meditation, to everyone in English.都内にある禅宗寺院の中の人。仏教、イベント、本、教育、組織、アナログゲームなど、日々考えていることを綴ります。現在仏教になじみのある方、まったく興味のない方、みなさまに読んでいただけたら幸いです。

気持ちのいいくり返し。

ゲームには、
「気持ちのいいルーティン」というものが存在します。
いえ、存在するというか、
「いいゲームには気持ちのいいルーティンがある」
といったほうがいいかもしれません。


ゲームをプレイする人が
ある一定の動作を機械的にくり返していると、
それを目撃した人から、しばしば、
「それ、たのしいの?」などと言われたりします。
はっきりさせておきましょう。


たのしんです、そのくり返し。


ただし、その気持ちのいいくり返しは、
どんなゲームにもあるというものじゃありません。
というか、それがあるかないかということが、
そのままゲームの質なのかもしれない。
そんなお話を書いてみます。


気持ちのいいくり返し、
気持ちのいいルーティンは、人によって違います。
お風呂の湯加減のように、人によって微妙に違います。


ですから、そこに正解はありません。
「効率のよさ」や「最短時間」を軸にするなら
はっきりとした答えが出ると思います。
けれども、「気持ちのいいくり返し」を命題にした場合、
答えは人それぞれです。


もっともしっくりくるのは、
その人ができるだいたいのことを試したうえで、
体感と実感をもってそこにたどり着くことです。
ぜんぶは無理でも、「こうかな?」「どうかな?」と、
ある程度のことを自分なりに試したあとで、
ああ、ここがラクだな、ここが気持ちいいな、
と定められることです。


で、さっき言った
「いいゲームには気持ちのいいルーティンがある」
っていうのは、つまりそういうことで、
「その人なりの気持ちのいいルーティン」が
定められるためには、
ゲームがよくできていないとむずかしいのです。


そもそもでいうと、なにかの目的に向かって
プレイヤーがモチベーションを保てなければ
いっさいのことははじまらないでしょう。
先の南の島の貯蓄法のことでいえば、
「ベルが貯まるとうれしいぞ」
「あれもできちゃうしこれもできちゃうぞ」
「あれをやるためにはベルがこれだけ必要だなあ」という
うれしさ、よろこび、動機が
ゲームのなかに生まれてはじめて
プレイヤーは「気持ちのいいくり返し」への
スタートラインに立てるのです。


あ、また長くなる予感がしてきました。すいません。
ちょっといろんな説明をかいつまんで急ぎましょう。


まず、「こうなるとうれしい」という目的があること。
そしてそこへ、「いくつもの道」があること。
「いくつもの道」をいくつか
「試すこと自体がたのしい」こと。
「いくつもの道」があらかじめ用意されているのではなく、
「自分が自然と見つけた道」だと感じられること。
そのまるごとのセットがゲームのあちこちに
大小いくつもあること。


そういうことがゲームのなかに
きちんと成り立っているからこそ
プレイヤーは「気持ちのいいくり返し」を
得ることができるのだとぼくは思います。


そして、そのような過程を経て得た
「気持ちのいいくり返し」をくり返すのは、
ほんとうに気持ちがいいのですよ。
──それ、たのしいの?
うん、たのしいんですよ。


だって、それをくり返すことの目的が
うれしいこととして確立しているのだし、
このルーティンは自分にフィットしていて
ラクにストレスなくくり返せるのです。
いわば、ゴールも道中もたのしいのです。
ですから、時間を費やすという罪悪感さえなければ、
うっとりとぼんやりと、いつまででも、
それをくり返すことができるのです。
みんなで とびだせどうぶつの森 - 樹の上の秘密基地 - ほぼ日刊イトイ新聞
2013/01/09 02:06 永田さんの投稿

まず、「こうなるとうれしい」という目的があること。
そしてそこへ、「いくつもの道」があること。
「いくつもの道」をいくつか
「試すこと自体がたのしい」こと。
「いくつもの道」があらかじめ用意されているのではなく、
「自分が自然と見つけた道」だと感じられること。
そのまるごとのセットがゲームのあちこちに
大小いくつもあること。


現実の世界はどうでしょうか。時間を費やすという罪悪感も、楽しみの一つではないかと言えないでしょうか?

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