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カンロニン:用法用量を守って正しくお使いください

I will be able to teach zazen, the sitting-meditation, to everyone in English.都内にある禅宗寺院の中の人。仏教、イベント、本、教育、組織、アナログゲームなど、日々考えていることを綴ります。現在仏教になじみのある方、まったく興味のない方、みなさまに読んでいただけたら幸いです。

放下著~手放す

趙州和尚に問う、弟子の厳陽善信。「一物不将来の時いかん(私はもう全部を捨て去って何一つ持っておりません。そんな時どうしたらよいでしょう)」
趙州和尚こたえて曰く「放下著(捨て去れ!)」
弟子・厳陽はさらに問う。「すでにこれ一物不将来、この何をか放下せん(すでに何も持っていないと答えたじゃないですか。捨て去れと言われても、もう捨て去るものは何もありませんよ!)」
趙州和尚こたえて曰く「いんもならば則ち担取し去れ(それならば、かついで行け)」

放下着とも、放下著とも、言うようです。
もう私は捨て去りましたけど?という気持ちを、後生大事に持ってるじゃないか!・・と趙州和尚。
捨て去れ!と訳してみましたが、「手放す」の方がしっくりくると思います。


手放すという言葉には、どういったイメージを持っているでしょうか。
どこかネガティブで、返ってこない、取り返しのつかないこととなる。そんなイメージがある言葉だと思います。
しかし僕はそう思いません。むしろ、ポジティブで、可逆性、永遠性のある言葉だと思います。

手放すという言葉を捉え直すには、「なにを」手放すかを考える必要があります。それも宇宙・時間という広い視点を持って、です。

過去を手放す

人は皆、オギャーと生まれ、ハイハイ、ヨチヨチ、自分で靴をはけるようになり、雑踏の中をかき分けて進むことができるようになります。社会的に自立をしていく。
若いころには、マイホーム、マイカー、仕事の業績など。なにかをすること&持つことが、人生の大きな目標となります。
しかし40、50代となるにつれ、今なにをするか&持つかではなく、いかに存在しているかが問題となって現れてくるでしょう。
さらに歳を重ねた後。定年退職後は、いままで積み上げてきたこと、ほぼすべてのこと手放すことが大切になるといえます。いままで何をしてきたのか&持っていたのか。どういう存在であったのか。もちろんこの事実は、死を間近にする人間に限りません。

コリントの信徒への手紙2、4章18節にある聖パウロの言葉です。
 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。
 見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

また、法句経にある言葉です。
 心さときひとらは、家におぼるるなく、立ち去りゆくなり。
 水鳥の、池をすてさるごとく、この家をすて、かの家をすつ。

若いとき、ひとは外交的な活動に人生の意義を見出します。財産を築いたり、地位を獲得したり。
外へと向かう欲求は、歳を重ねるごとに減っていきます。自身の限界を感じたり、後続に譲ったりするからです。その分、努力の焦点は内面的なものへと移ります。平常心、寛容さ、思いやりの気持ちです。
どのように生きてきたかは、その人となりに影響しているはずです。その人となりは、見えないものとして永遠に存続するもの。心さときひとらの暮らしぶりに表れるのですから。

過去とは、ただ単に過ぎ去った事実というわけではありません。認めたくない過去も、積み上げてきた過去も、私たちの人格の一部として、今このときも生き続けています。
だからといって、いまの自分の拠り所として、過去の肩書きを使い続けることはできません。
人は、時間の流れを止めることはできません。その時間の流れに逆らうことは、もっと無理なことです。過去の肩書きは過去の肩書きとして手放していく必要があります。しかし手放すといっても、その事実が無くなったわけではないのです。手放すというよりも、内在化した、吸収した、染み入った、体現化したと言ってもよいでしょう。
いつまでも過去の肩書きにとらわれていては、過去から進むことはできません。

あの頃の過去の自分、を手放すことは大切なのです。

未来を手放す

オーストリアの精神科医で、『夜と霧』で知られるV.E.フランクルはこう言っています。「生きることから何かを期待するのではなく、むしろ人生が自分に何を期待しているのかを問うべきだ。人生はあなたたちから何かを期待している、生きていれば未来にあなたたちを待っている何かがある。」と。
これは、生きていればきっと良いことがあるから待っていようというわけではなく、生きがいを見つけよということです。
だからといって思い詰めてはいけません。
この世の中はとてもいい加減で、曖昧で、秩序だっていないことに気が付きながらも。すべてのことに理由が、秩序がなければならないと考えることは、人生を行き止まらせる。生きることについての絶対の意味や理由なんて無いのですから。

カトリック教会の修道女、マザー・テレサの言葉です。
 思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
 言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
 行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
 習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
 性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

私たち人間は、感情に支配されてしまうことが多々あります。けれども意志によって、自由な決断ができる生き物です。怒りや憎しみといった負の感情を、理性によって乗り越えることは人間の能力の一つです。
意志による行動で、過去の出来事が変わるわけではありません。ただ、自分自身を寛大に、豊かなものに変えられるかもしれない。絶対の意味などはなく、相対の意味があるのです。出会い、縁という意味です。

未来とは未だ来ない事実ではありますが、なにも想像できないわけではありません。時節に応じて臨機応変な行動をとることも大切ですが、長期的なビジョンを持つことも大切なことです。

長期的視野の大切さは、2011年の原発事故でインパクトをもって伝えられました。ほかにも様々な事例があります。鉄道事業や街のデザインなどは最たる例です。
伊勢神宮は20年ごとの式年遷宮のため、神宮備林という備えをしています。遷宮には大量のヒノキが必要となり、しかも20年ごとに使われていく。ヒノキの生長は200年ほどなので、はてしない計画が必要です。

直感と直観は違います。感情のおもむくままに動いていては破滅の道に進んでしまうことでしょう。そうではなくて、いままでの経験などから現状を観察し、分析して判断を下す。
感情に流されたり、こうでなければならないという狭い視野を持っていては、人生が豊かなものになるとは言えないでしょう。生き止まるような視点を手放すことが、もっと広い視野を手に入れることにつながるのですから。

こうあるべき未来、を手放すことは大切なのです。

放てば・・?

はじめに こう言いました。「手放す」とは、ポジティブで、可逆性、永遠性のある言葉だと思います、と。

手放すとは、大切なものや人を、ぽいっと捨て去ることではありません。
過去や未来だけでなく、現在をどう扱うか、という問題なのです。
にぎりしめた手を、開く。ただそれだけのことなのですが、ネガティブなイメージで目がくらまされているだけだとしたら、惜しいことだと思いませんか。

仏教では手放せば相対の意味もない、求めるものは外ではなく内に、そもそも備わっていた、となるわけですが。つかんでいたものは、本当に多くあったものの中の、これっぽっちだったのか?
手放すにしても、とりあえず手放せばいいというものではないようですが。

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