カンロニン:用法用量を守って正しくお使いください

I will be able to teach zazen, the sitting-meditation, to everyone in English.都内にある禅宗寺院の中の人。仏教、イベント、本、教育、組織、アナログゲームなど、日々考えていることを綴ります。現在仏教になじみのある方、まったく興味のない方、みなさまに読んでいただけたら幸いです。

悲嘆について学ぶ

今日は木曜日、上智大学グリーフケア講座の日だ。
修業道場から東京に帰ってきてからというもの、すぐに大学の公開講座をあさったのだった。グリーフケア講座は、そのなかの一つで、いまも通っている。
それもすべて、先達に追いつかんが為。時間というものは、どうやっても埋められない。勝てないぶん、質を変えていかないと、と。
しかし公開講座に出たからといって、即効で結果がでるわけではない。ハウツーではないのだし、ケースを学んでいく・・という感じだとおもう。

住職とは30年の差がある。この差はとても大きい。なぜならその30年とは経験でもあり、体験となっているからだ。公開講座は経験にすぎない。身をもっての体験ではないのだ。
勉強会・公開講座・話しを聞きに行くなどなど、いろいろ試してみてはいる。けれども、手ごたえのようなものを感じずにいた。なにか得心がいかないのだ。
それが実は今日、こういった行為は、ちゃんと意味があったと気付いた。経験として蓄えられ、体験となるときの土壌になっていたのだと気付いた。
それはなぜかというと、お見舞いの日々という体験と、遺族になるというプロセス・悲しみにくれる遺族に寄り添うという体験をしたことを思い出したのだ。

でも、、、そんな経験の有無。体験の有無。~の有無だなんてものも超越したのが禅宗だろうとも、はたと気付いたのだった。
たとえば『「ガン患者を家族にもつお坊さん」は「ガンについて知らないお坊さん」よりも、ガンで亡くなった人の遺族にとって為になるはずだ!』と、ぼくは思っていた。
でも、そんなこと関係ないのだ。
そりゃあたしかに「ガン患者を家族にもつお坊さん」は「ガンについて知らないお坊さん」よりも、病状の進行具合とか詳しくなるだろう。どこが痛いとか、病院は空調ききすぎて寒いとか。
でも、そんなこと関係ないのだ。
ただ、思ったこと、感じたことを話せばよいのだと。そう思ったのだった。
愛見の大悲ってやつだった。


来週は学園祭で休み。再来週が楽しみだ。

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