カンロニン:用法用量を守って正しくお使いください

I will be able to teach zazen, the sitting-meditation, to everyone in English.都内にある禅宗寺院の中の人。仏教、イベント、本、教育、組織、アナログゲームなど、日々考えていることを綴ります。現在仏教になじみのある方、まったく興味のない方、みなさまに読んでいただけたら幸いです。

ただし都会人限定とする

三田のほうのお寺さんとお勉強会があって、参加している。そこで出た話なんだけども。

ブータンの人に幸せですか?と聞くと、幸せだと。それは、まわりの人が「健康だから」「ちゃんと働けてるらしいし」「作物ができたから」と答えるんだと。意識が外に向かっている。
かえって日本の人に幸せですか?と聞くと、そんなことないと。それは、じぶんが「年もとってしまったし」「こんな嫌な事があった」「先が見えないから」と答えるらしい。意識が内に向かっている。

そのお話を聞いて、ふっとブータン関連のニュース(といっても、ワイドショウのこと)を見ていて感じたことを思い出したのだった。
それは、「ブータンうらやましいね」という視線だった。本当に笑っているわけではない目、というか。
幸福度たかいんですよ、これ見てください・・とかなんとか取材したものを見させられ。「いやー、いいですな」「うらやましいですな」。データがあるのだから、と言わされている感じ。を僕は感じた、のを思い出したのだった。


そこで、「田舎という原風景、にたいする視線」が、ブータンに対する視線にとても似ているんじゃないか、とボンヤリお話したのだけれども。

田舎という原風景は作られたものだ。ブータンの幸福度のデータだって、それはブータンのことなのであって、日本には関係ないデータなのだ。日本にとっては真実ではないのだ。
もちろん、じゃあそこから考えていきましょうよ・・とかやりようはあるのだろうが、ワイドショウなので考えない。表面さらってオシマイ。(うらやましいね、くらいが終着点としてちょうどいいのかも。)

つくられた田舎という原風景は、我々にとって真実ではない(ただし都会人限定とする)(この都会人とは、田舎という原風景はつくられたイメージと肌身で知っている者のこと)。
その幻は、たしかにあったのかもしれない。何も無いところからは生まれないからだ。たしかにあったかもしれないのは昔のことで、そんな昔を経て現在にいる。
振り返ってばかりでは生きていけないのだ。過去を輝かせるには今を頑張るしかない。


ここで思うのは、都会人限定なのかなぁ、ということもある。作られたいわゆる原風景で生まれ暮らした人間にとって、田舎は真実なわけだし。暮し慣れていけば真実なわけだし。
あ、本当に原風景って「作られた」ものなのか・・の議論はしません。



なんで、リンクしてしまったのかというと。
ブータン側の内に向いている「普通に」「元気で」「暮らすこと」=幸せっていう見せ方、見方が。まんざらでもなかった自分がいたんです。憧れているだけじゃどうしようもないってのに。悪いことじゃないんですけどね。自分で自分に、またか・・て呆れたというか。

すいません。ぼやっと適当なことを言ったのに、面白いこと言うねみたいにしてくださいまして。感謝してます、いつも。

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