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カンロニン:用法用量を守って正しくお使いください

I will be able to teach zazen, the sitting-meditation, to everyone in English.都内にある禅宗寺院の中の人。仏教、イベント、本、教育、組織、アナログゲームなど、日々考えていることを綴ります。現在仏教になじみのある方、まったく興味のない方、みなさまに読んでいただけたら幸いです。

もとを取る

坐禅体験!は会費500円をいただいている。


せっかく来てくれたんだから楽しんでほしい。そのために僕はみんなを笑わせようと思って、バカをしたり、とぼけたりする。
そこでよく言うのが「500円って高くないかなーと思いません?」ってこと。ほぼ毎回言っている。
そして、こうも言う。「もとを取ろうと思うなら、ちょっと頑張ってみてください。お手伝いをします」と。


もとを取る。「もとを取る」とは、どういうことだろうか。


たとえばランチビュッフェ(バイキングとビュッフェの違いは雰囲気)で5000円だと。ちょっと高いかもしれない。それで「よーし、たくさん食べちゃうぞ。もと取るぞ」とか言って、バカ食いするかというと、普通そんなことしない。お金を払った時点で半分はもとを取れていて(前払いとして)。お店の席につき(施設使用料等)、料理(サービス)を味わったのなら、完全にもとが取れているのだと僕は思う。
本を買う。買った時点で半分はもとは取れている。そして本棚に並べた、積んだ時点で完全にもとは取れていたりもするし。斜め読みだろうと、一文一文読み込もうと同じとする)。


「よーし、たくさん食べちゃうぞ」と、お腹につめこむ料理やらお酒やらの量・質自体が「もと」の代わりではなく。これから始まる・始めること自体が。安心してその状況にあったという事実が「もと」の代わりなのだ。安心・・という言葉は自身の満足に依るのだが、勝手な期待は「もと」の代わりにもならない。
確約されるだろう期待・容易に考えられる期待が「もと」の代わりなのだ。ビュッフェなら美味しいご飯が食べ放題、本なら知識や空想への旅の確約。
これからかかるだろう時間・労力。得られるものについては関係ないのだ。


ただ、『坐禅体験!』は違う。まったく想像ができない。
確約されるだろう期待が何か分からないからだ。だから冒頭、「5W1H。なぜ、どこで、だれと、どのような時間で、どういう流れで、何をするか」説明がいる。


仏教で無明だとか執着だとか言われるものは、「容易にものごとを結びつけてしまう働き」に気付いていない故といえる。


坐禅は寝ていたり、寝不足による神秘体験・幻覚が大切なわけではない。
最重要事項は、覚醒状態であること。無意識のうちに「自分は悟ったかもしれない」とか思ったなら、それは夢のまた夢のことにすぎません。
かといって現代社会において「自分は悟った!」と言う人も信用出来ませんけれども・・・・ここが実は大事でして。


坐禅体験!における短時間のセッションを経て、ちょっと調子掴んだのではないか?と思ってもらえればしめたものです。半分は元を取ったと言えるのではないかと。


ピーンと閃いたり、あっこんな感じかなとか、そうかこれかーとか。ちょっと尋常ではない反応を得ること。常軌を逸する感覚に触れること。
平均値前後でフラフラしているのではなくて、飛び抜けた異常値になってほしい。天狗になってるときこそ、パフォーマンスのクオリティが高いように。イッちゃってほしい。擬似悟った体験を感じていただきたい。
15分x3回では集中力が求められますし難しくて、それでもまだ半分しか元を取れてないのですが。


完全に「元を取る」には、そこからの確認に気付くことが出来るかにかかります。
「おい、ちょっと待てよ自分」と。
鍵は…疑いもしません、かといって信じもしない。ただひたすらに確認をしていくのみ、なのだと。


以上のようなことを口で説明してますけれど、まず擬似悟った感を得ないことには始まりませんし。体験や経験は色褪せていきます。
そのためにはお家で一人坐禅をしているだけではなく、お寺とか坐禅会に出ることを最後にオススメしますが。


さらに、繰り返しおなじことを聞くことも、集団でがんばることも、もとを取るには必要なのです。

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