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カンロニン:用法用量を守って正しくお使いください

I will be able to teach zazen, the sitting-meditation, to everyone in English.都内にある禅宗寺院の中の人。仏教、イベント、本、教育、組織、アナログゲームなど、日々考えていることを綴ります。現在仏教になじみのある方、まったく興味のない方、みなさまに読んでいただけたら幸いです。

三昧(ざんまい)

自分とはなにか。
この問いは不毛だ。そもそも考える必要はないし、考えても何かの役に立つということもない。
たいへん長い時間考えたとしてもせいぜい哲学者になるくらいなだけであって、本当の意味で「自分とはなにか」に正答するわけではないと思う。
むしろ考えることは正答から離れることになる。なぜなら、正答は「三昧」だからだ。


三昧とは。
三昧とは、これはなにかと思う間もなく、しかし意識的に、私とある事物との距離感・方向・かかわりを持ちつづけることだ。


ただし。これを社会的に正答とするためには、三昧の外が安全である前提が必要になる。
たとえば…三昧からふと我に返ったとき、破滅的な状況に置かれている。元に戻れない。思い出せない。依存してしまう。


シンプルで、直接的で、パワフル。三昧の要素はこんなものだ。
一つのことに没入してワーッとなる。まるで自分なんてものはなくて。まさにこれが自分なんじゃないか。そんなことも思わなくて。


三昧は、なにかを生み出すかもしれないし、生み出さなくてもいい。
三昧は、これはなにかと思う間もないからといって、あぁ今日の晩御飯どうしようかとか、明日は晴れるから洗濯しないとねとか、思わなくもない。そう思う合間は三昧ではないが、三昧と三昧の切れ間ないつなぎだ。
三昧は、これはなにかと思う間もなく、私とある事物との距離感・方向・かかわりを持ちつづけること。無意識にやっているのなら、それはただの習慣でしかない。覚醒していることが大切なのだ。


縁。それは、私とある事物。「この縁がなければ、私は存在しないし、ある事物も存在しない」と言うこともできないのだ。

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