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カンロニン:用法用量を守って正しくお使いください

I will be able to teach zazen, the sitting-meditation, to everyone in English.都内にある禅宗寺院の中の人。仏教、イベント、本、教育、組織、アナログゲームなど、日々考えていることを綴ります。現在仏教になじみのある方、まったく興味のない方、みなさまに読んでいただけたら幸いです。

作り、食べ、片付ける「食」のあたりまえ

お坊さんが出す本。こころが調う系のなかでも、オススメの1冊。
タイトルは「お坊さんにまなぶこころが調う食の作法」、ということでテーマは食である。

お坊さんにまなぶ こころが調う食の作法

お坊さんにまなぶ こころが調う食の作法

著者の星覚さんは曹洞宗のお坊さんで、いまベルリンで禅を伝える活動をしている。そのベルリンに行く前、彼はヨガスタジオにて坐禅とお粥の会を開いていた(と思う)。いつ食についての御本を出されるのだろうかと、楽しみにしていた。
さて、臨済宗の私から見ると、曹洞宗の方は作法(型)をとても大事にしていらっしゃる。そんな曹洞宗のお坊さんが書いた本なので、作法を軸に、仏教や人の営み(おもに食)について語りかけてくることばかり。

たとえば、
修行道場では、数十人の集団が同じタイミングで食べ始めます。そのため、よそってもらう&食べる&片付けるまでの作法が決まっているわけですが・・・。

一、食べる作法:洗い物まで組み込まれた合理的な作法(pp.30-31)

  • 以上が永平寺の食事の基本的な流れです。これらの作法は朝、昼、夜、それぞれの器の扱い方が異なるため、すべて覚えるだけでも大変苦労します。修行生活の最初の半年はこの作法に慣れる期間といっても過言ではありません。
  • しかし慣れてしまえばこれほどラクで理にかなった作法はありません。大変手間がかかるように見えますが、一つひとつの動作を集中して行うため所要時間は40〜60分ほどと実は非常に効率的に食事を頂くことができます。
  • その効率のよさは一人、二人ではなく大人数になるとはっきりとわかります。〜〜。

集団生活の知恵と言ってしまえばそれまでですが、お伝えしたいことはもっと大きなことです。お伝えしたいこととは、道理がある、ということ。
一人暮らしの方。お店に入った時(ラーメン屋さんとか)ひとりでご飯を食べている人は、本当にひとりでご飯を食べているのでしょうか。
そのご飯を作ったのはだれでしょうか。その野菜やお肉は誰がつくって、誰がはこんだのでしょうか。その器は。あなたがそれを買うためのお金は。その時間は。

なにをあたりまえな。

まったく当たり前のことですが、その当たり前には道理が付いている、というのです。
作法というと形式にこだわるあまり、”じゃあ形だけしていればいいんでしょ”となりそうですが、そうはなりません。しっかりと道理を振り返らせることも修行のひとつだそうです。
当たり前を当たり前にする。曹洞宗では、道元さんという方が、「食」に関する多くの言葉を残していらっしゃいます。その言葉は、当たり前のなぜ?への答えのヒントとなり、曹洞宗のお坊さんたちは修行することができるのです。

作法とは具体的です。具体的だからこそ、どんな人であろうとも日常に活かすことができます。この本に書かれていることは、作法についての羅列ではありません。星覚さん独特のわかりやすい語り口と、優しさにあふれています。どうかこの本を読んで、ぜひ禅の作法を、食事のときに取り入れてみてください。作り、食べ、片付ける「食」のあたりまえを、まず形から触れてみてはいかがでしょうか。

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星覚さんは、本に書いてあるような語り口と心持ちで、生活していらっしゃいます。心穏やかに、日々”食べていく”ことにも執着せず。そんな彼の精進を、本当に尊敬します。各コラムの最後(とその前くらい)の文章は、本人らしさにあふれています。
「近くならひとりで行くと早いが、遠くなら大勢で行くことだ(If you want to go fast, go alone. If you want to go far, go together.)」
社会的動物である私たち。けして一人で生きて行くことはできません。大勢で生きています。大勢のなかのひとりとして、私たちの日々の営みを見つめる言葉がここにあります。
多くの人に読んでいただき、禅の道を歩んでもらえたら幸いです。

星覚さんの御本

坐ればわかる #大安心の禅入門 (文春新書 940)

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身体と心が美しくなる禅の作法―だれでもできる一日一禅

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禅の言うとおりにやってみよう

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よい「場を作る」〜ワークショップってなに

お寺はなにができるか、なにをしたいか。考えていたら、ワークショップという言葉にいきついたお話。

http://www.flickr.com/photos/21772716@N03/14977605675
photo by Japón Entre Amigos

陽岳寺では坐禅会やヨガ、お茶の会など催している。では、どのような会・先生であろうとオッケーかと言うと、違う。こういった会をお寺で催すにあたり大切にしたいことがある。
それは「場を作る」ということだ。
あるお坊さんも仰っているが「お寺は私的な公共施設」と言える。定義の範囲については置いておくが、「営利にとらわれず、トップの自由な裁量で決められる、みんなの施設」と言い換えてみようか。
さて、そんなみんなのお寺で「場を作る」とき、私は3つの視点が大切だと思う。

  1. 主催者(会場の設定者)
  2. 講師(導き役)
  3. 参加者

これはワークショップでも同じだと思うし、会社や学校など”空気や雰囲気を読む必要がある場”も同様だろう。
じつは自然発生的に「場を作る」ことは起きている。たとえば公園でのママ友の集まり。主催者はいつものメンバー自身(ママさんABCD「公園に行ったらママ友がいるわよね、行こうかしら」)、導き役は話の主導権を握ったママさん(ママさんA「ちょっと聞いてよ!」)、参加者は他のママさんたちだ(ママさんBCD「なになに」)。
場であることのハードルをどこまで上げる/下げるかは別にしても、3つの視点があることに違いはないと思う。

現役ワークショップ講師も大切にしている3つの視点

たまたまではあるが、ワークショップの講師と言われる方々とお話させていただく機会が多々ある昨今。彼ら、ワークショップの講師である方々は、この3つの視点を本当に大切にしているように思える。
たしかに、主催者・講師・参加者のうち、どれか一つでも欠けては「ワークショップ」は成立しない。
会場も先生も用意したけれども、参加者がいなければ意味がないだろう。講師も受けたい参加者もいたからといって、場所がなければ開催できない。参加者のニーズもあることが分かり、主催者がお願いしていても、講師が首を縦にふらなければ話は進まない。
「場を作る」3者はお互いに依存する関係になっている。
さらに言えば、講師としては参加者の気持ちを考えて内容を素晴らしいものに!と考えるだろう。主催者としては収支と環境のバランスを見つつ、必要なことから投資するだろう。参加者も講師がこのまま教え続けてくれるように応援することを考えて、しっかり参加するだろう。
もしも、よい「場を作る」ことがしたいならば、この3つの視点は捨て置けないようだ。

  1. 主催者(会場の設定者)
  2. 講師(導き役)
  3. 参加者

ワークショップについてもう少し

ここですこし、浅い知識を披露しながら、「ワークショップとはこういうもの」的なことを考えてみたい。
歴史を振り返ることはできないので、経験やお話を聞いた上でのことになるが、「ワークショップとはこういうもの」の条件は、上記の3つの視点に加えて、こんなところではないだろうか。

  • テーマがある
  • 導き役・講師(的存在)から、考え・体験・モノ(・テーマ)の提示をされる
  • 参加者の受け止め方は自由
  • その場にいる人たちの中で、意見交換や相互作用がある(感想シェアetc.)

もちろん、テーマや講師が決まっておらず、(参加者の中から)自然発生することを期待するパターンもあるだろう。さらに言えば、講師が一人である必要もないし、その他のルールもしかり。
ただし、ファシリテーションが当たり前すぎると、結果も当たり前すぎることになりやすいらしい。
・・・プレゼンテーション(発表)のみ、マインドコントロール(心理誘導)、アジテーション(扇動)はワークショップとは言わない。もってのほかである。

どの立ち位置にいるか、よりも大切なこと

さて、私たちが(ワークショップといわれる)「場を作る」一員になったとき、どの立ち位置にいるのだろうか。主催者としてお願いする立場だろうか?講師としてなにかを提案するのだろうか?参加者としてワクワクしているのだろうか?
たしかに今自分がどこにいるかを認識して、動くことは大事だろう。参加者なのに”来てやったことを有難く思え”などと偉そうにすることや、主催者なのに”やってもらえないと困るんで講師の方の言いなりっす”と卑屈になることなどは・・・間違っている。
身の程を知り、分をわきまえるのもいいけれども、わたしは”自分がどの立ち位置にいるか”、よりも大切なことがあると思うようになった。

それは、『3つの視点のうち2つの視点(自分の立ち位置以外の人の視点)は、想像でしかない』ということだ。
とあるイベントにて、WSの講師を是非にとお願いしている、参加者に来てねと声かけしている側として、これは肝に銘じておかないといけない。

  • 三方よし(「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の三つの「良し」。売り手と買い手がともに満足し、また社会貢献もできるのがよい商売であるということ。近江商人の心得をいったもの。by.コトバンク:デジタル大辞泉

という言葉は有名だが、所詮売り手は売り手であり、買い手は書いてであり、世間は世間である。主催者は主催者であり、講師は講師であり、参加者は参加者なのである。
自分がどこにいるかを認識するというよりかは、どこからどこまでを先方がテリトリーとしているかが大事なのだと思う。
たとえばWSの内容について。WSのことは講師が一番考えている。主催者は逆立ちしたって、講師よりもWSの内容について考えていない(もちろん、イベントの趣旨に合うかどうか、新たな視点、とか考えるわけではあるが、そういうことではなくて)。いくら考えていたとしても、WSを実際に行うのは講師なわけだから、どうやっても勝てない。
さらに言えば、主催者側はほかにもっと考えることがあるわけだし、よい「場を作る」ことを考えたならば、講師も主催者側もそれぞれにやることをやるだけなのだ。

じゃあどうするか

じゃあ、どうするか。聞けばいい。

  1. 主催者(会場の設定者)
  2. 講師(導き役)
  3. 参加者

お寺(自分たち)は、なにができるか、なにをしたいか。
あなたたちと、どのようなところで手伝えるか。

根本的に、他人のやっていることについての考えには、とうてい及ばない。

なら教えてもらえばいい。

もちろん、ほかの主催者に聞くこともいいのだろう。同業多種とか。(主催者)お寺は一人ではない。グループとしてどうするかも考えなければならない。
よい「場を作る」ことと、みんなが良いご縁を得ることが、うまいこと循環するような。そんな機会を得たい。

というわけで、お寺にお化け屋敷をつくりたい

というわけで、そんな機会になれるように頑張っています。お寺にお化け屋敷を作ろうと、活動しています。3月末までの挑戦なので、どうかお手伝いいただければと存じます!

世界最大級の寺社フェス「向源」にお化け屋敷を作りたい(向源実行委員会) - READYFOR?
ここではクラウドファンディングという、寄付をいただいて企画を実現させよう!という仕組みを使っています。そこでは支援をしていただくと、お土産・リターンがもらえます。たとえば・・・、
>支援していただいた方へのリターン<
・お坊さんからのお礼状や、ポストカード!
・当日お化け屋敷に並ばずに楽しめる、チケット!
・お化け屋敷プロデューサー五味さんのトークショーへご招待!

5月2・3日(土日)増上寺さんで行われる、寺社フェス「向源」。

世界最大級の寺社フェス「向源」にて、みんなが楽しめる『お化け屋敷』をつくるために。どうかみなさん、3000円から応援をしてください。
ご支援&シェアのご協力をおねがいします!!

READYFOR?世界最大級の寺社フェス「向源」にお化け屋敷を作りたい

世界最大級の寺社フェス「向源」にお化け屋敷を作りたい(向源実行委員会) - READYFOR?

どうやったってお化け怖いじゃないですか。霊魂とか無いよ、考えないよ、取り扱わないよーとか臨済宗が言っても、怖いひとは怖いんですよ。じゃあ、どうするの。・・・その答えの一つになるかもしれません。

被害妄想と自己完結は要注意

とある人のことを思い出すとドキドキしてしまう。そんなことはありませんか。良い意味ではなく、悪い意味で。「あの人は苦手である」といった、プレ抑鬱状態であったり、プレPTSD的なところでしょうか。そんなときは逃げましょうね。

モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない

モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない

それはきっと、モラル・ハラスメントを受けていたせいかもしれません。と考えてみます。
モラルをハラスメントする。
被害者の倫理観や道徳観を利用して、倫理観や道徳観とつながる被害者の人間性をおとしめることです。

この本には、モラル・ハラスメントの加害者について、被害者について、どのような性質を持っている人か。などなど例を挙げながら説明がなされています。


解説に、とある一例が載っているので御紹介しましょう。

  • 都会生まれで都会育ちのとある女性が、田舎の豪商に嫁いだ。彼女の結婚後の生活は大変で、田舎の儀式・伝統・しきたりをひととおり覚えたと思ったら、嫁姑問題がのしかかってくる。
  • 姑は表面的には優しく大事にするように見えるが、日常のちょっとした仕事に口を挟むのだった。
  • その行為は陰湿で、彼女を深く傷つけていった。
  • なぜなら、堂々と言うのではなく、独り言のように言うことで彼女の反論を封じているからだ。そうして、姑は彼女の行動や思考を支配するのだった。
  • 「私が正しい、私をみならい、私を敬い、私を尊びなさい」という圧力である。
  • 残念ながら夫は姑の味方をして、彼女の実家も味方にはならなかった(「女はいったん嫁に行ったら帰ってくるものではない」という古い伝統)。
  • どこにも逃げ場がなくなり、彼女は・・・・・・。

上記はまさにモラル・ハラスメントの典型例であり、日本的です。村八分スクールカーストでのいじめ等もそれでしょう。
村八分というと、大昔のことであって、このような社会構造は日本において崩れてきたと思いきや、そうではないようです。

  • 新社会人に対して、上司や同僚が「おい、飲みに行くだろ?」と圧力で誘う。
  • 転校生に対して、同級生が「(とあるいじめられている同級生を指さし)あいつはクサイんだ。知ってる?」と同調で誘う。


私たちがこういった勧誘にあったとき、正面からぶつかることを避けるものです。何故ならその誘いにのらなければ、加害者とその取り巻きに自分がつぶされてしまうと感覚的に知っているから。
そして、障害を避けるために努力をするでしょう。スイスイと泳ぎ切る人間だけが成功できることに羨望して。

  • 「まじっすか、当たり前じゃないですか。行きますよー」「へー、そうなんだー。だよねー。わかるー。うけるー」

じゃあ、どうしようか-予防

どうすれば、この日本全体どこにでも存在するような社会規模の問題を解決することができるか?その答えはありません。残念ながら、この本にも書いていません。
ただ一つの答えとして、知ることが大事だとしています。
予防するためにも、いま現在被害にあっていると気付くためにも。とてもベタな答えですが、至極当たり前で、大切なことです。


モラル・ハラスメントの加害者は、

  • 相手のモラルを利用するので、モラルを持っていません
  • そのため、話せば分かってくれる!と私たちが説明したとしても、聞く耳を持っていません
  • むしろ、自分が被害者であることの証拠としてしまう
  • 肥大した自己だけを持っている
  • 他人が羨ましくて、手に入れるだけではなく、破壊します
  • 責任を持たず、罪悪感も持たず、すべて他人のせいにします
  • まわりを貶めることによって、相対的に自分の地位を向上させようとする
  • 悲しそうに、落ち込んでいるように見えるのは、復讐に燃えているから
  • 主体性を持たないので、他のやり方を知らないし、知ろうともしない


・・・・・・絶望してきますが、私にはよく分かりました。表面的にはその人は能力を持っているように見えますが、その能力は誰かを支配する道具に過ぎないのですね。
こう書いていると、自分がすごく嫌な人間のように思えてきますね。でも、彼らは自分には何も無いから相手が欲しくて、手に入れたものを使うかと思いきや壊す。

感覚的なものですが、「被害妄想が激しく、自己完結している」人には要注意です。たとえば、『私が悪いわけありません、だって~だからです。当然賠償してもらいます』

じゃあ、どうしようか-現状対応

加害者は自分を褒めてもらうためにしか、まわりの人を見ていません。自分にとって存在価値があるかどうかだけ。その関係の作り方は、魅力でひきつけること。
おかしなことを言っているようですが、彼らには過剰な自信による“魅力”があり、ひきつけられしまいます。
その引力にさからって、とにかく、逃げの一手です(ちなみに追っかけてきます)

追っかけてきますが、そのうち加害者は代わりの被害者を見つけます。でも、そこで安心してはいけません。
逃げきっなたら、相手のトリガーをひかないように注意すること。すっごく不満な、姑息なやり方ですが、ほかに妥当な方法が見つかりません。


被害者だけどハッピーというのは被支配が楽なだけで、搾取されていることに違いはありません。そしてもちろん、被害者である彼らの自己責任ではない。
日本の社会のなかで良く見る光景なので、新しい問題ではないわけです。景色や前提は共有されていると言っていい。
・・・・・・どうすればいいか。考えます。
そして、人の振り見て我が振り直せ、ですね。ご用心ご用心。

モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない

モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない

【レポート】仏教音楽コンサート「聲奏一如vol.3」に。

1月25日の日曜日、仏教音楽コンサート「聲奏一如vol.3」へと行ってきました。


松島龍戒 オフィシャルサイト

もやいの碑、りすシステムにて有名な功徳院の方々。お他宗の方々と一緒に出演。音楽にのせて仏教を伝える講演会に、満員のお客様が感動していらっしゃいました。

仏教を伝える。宗教の本質を「祈る」こととして、音楽を通じて表現する試み。とても新しいことです。しかし、音楽のもとを突き詰めていくと仏教音楽といわれる“声明”に帰ります(諸説あり)。新しいと思っていたものをたどれば、古いわけです。むしろ、古くて新しい試み。そんな仏教音楽コンサートでした。

演者側からのお話しですが、とても良かったです。いま振り返り、思い出し、考えますと、こういったところが私のつたない感性に響いたのかなと感じいります。

感覚に訴える、「音楽」という表現方法。

やっていることは同じでも、伝えたいこと・表現したい・やりたいことが違う。・・・現実にあると思います。たとえば、托鉢です。有楽町駅前や銀座の交差点にいる、虚無僧のような格好をしている人を見たことはありますか?
彼は托鉢といって修行をしているわけですが・・・本物でしょうか。我々からすると、<たぶんニセモノなのだろうな>という認識です。理由は色々とあるのですが、たぶん本物ではないのでしょう。
修行のひとつとして托鉢をしている、本気の托鉢僧もいるかもしれません。しかし、きっと都内の有楽町駅前や銀座の交差点にいる彼らは、托鉢という行為・やりたいことは同じでも、修行道場から托鉢をしている雲水さんたちとは、意味が違います。
駅前の彼らは食い扶持を集めるたいだけなのかと・・・(アジロ笠の裏に、般若心経のカンペが貼ってあったり/チリンチリン無駄に鳴らしたり)。

しかし、やっていることは違うけれども、伝えたいこと・表現したいこと・やりたいことは同じ。・・・これも現実にあると思います。
仏教音楽コンサートは、まさに“普通のお経とは違うけれども、仏教を伝える姿勢として同じ”でありました。言葉でくどくどとお話しすることで、すべてがまるっと伝えられるかどうか分からない部分もございます。音楽という感覚に訴えることで、言葉では伝えきれない部分までサラリとお届けすることができる。この可能性も見ました。

また、音楽であること・コンサートであることの醍醐味に通じる部分としても、以下2点があると思います。

一方的にお話をする形などではない、「コンサート」という受ける側の姿勢づくりの良さ。

コンサートですから、壇上と客席が向かい合っています(向かい合う図の例)。
http://www.flickr.com/photos/17562308@N02/5050812025
photo by Kmeron

ふだんのご法要では、仏さまを仰ぎ見るようにして、導師・脇侍である僧侶も、檀信徒のみなさまも、座っております。みなさんで同じ方向を向いているわけですね。しかし、コンサートでは我々が向かい合います。(仏さまの立ち位置をどうするか?という点は宗派によって様々。今回は壇上の上部に曼荼羅を掲げさせていただいておりました。)
この向かい合うことの大切さとは、今回参加してくださった方々だけが経験できることです。もちろん法話といったものは、僧侶が皆さんに対峙してお話しいたします。向かい合っているわけではありますが、それは“本当に”向かい合っている、と言えるのか考えさせられました。
どうしても一方的にお話しする形になってしまいがち・・なのではないかと(「こうなんです、こうなんです」と押しつけがましく)。もちろん聞法の良き点もあります。

今回は「コンサート」でございました。来てくださる方々は、聞きたい!という姿勢をすでに調えてくださっていらっしゃる。また、準備などしていない方々にとっても、「コンサート」というイメージを通して、心を開いてくださっていたのではないかと感じました。

対面した参加者と作り上げるコールANDレスポンスのきく、「ライブ」という即興性。

普段の法要という時間・場所とは、参加する側・聞く側の意識が違いました。その違いは、ライブにおけるコールアンドレスポンス(独唱にたいして、復唱/合唱)・レスポンソリウム(応唱)として現れました。
コンサート半ばに、三歸依文・十善戒・真言といった“お唱え”が導師のもと行われます。導師の呼びかけに対して応唱することで、参加者が出演者にもなる。この妙義。

また、ライブであり、対面であり、音楽という、壇上へと皆さんの反応がすぐに返ってくる場であること。この時間と空間をみなさんで作りあげている感覚は、会場でしか味わうことのできない・肌で感じるしかない良さがあったのでした。


参加者のおかげで、参加者の方々がいらっしゃるからこそ、このコンサートが完成している。まさに、音楽と仏教の良いところを掛け合わせた講演会でした。
本当に本当に、良かったです。主宰 松島師や楽器演奏者の方々の心意気、志ともども、とても身に沁みました。
上っ面をさらう言葉のようですが、この有難いご縁に深く感謝いたします。珍重!次回も楽しみです。



声明音楽ライブ 聲奏一如VOL.1 「般若心経」 - YouTube

新年の挨拶~社会を結びなおす

明けましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいします。
ブログ、Facebookまちのお寺の学校陽岳寺校ウェブサイトようがくじ「不二の会」ウェブサイトと、散逸していますが、どうやって位置づけていこうかと考え中です。

http://www.flickr.com/photos/45409431@N00/15962683759
photo by marfis75

年末年始インフルエンザにて寝込んでおりましたが、やっとお寺に復帰いたしました。みなさんもどうぞお気を付けてお過ごし頂きたいと思います。
そんな寝込みつつ、後半は誰にも会えないし、でも時間はあるしで考えていたのが、お寺とご縁をいただいている皆さん自身の社会の中での位置づけでした。
お寺として皆さんへと還元できる“何か”とは?と考えているなかで、そもそもご縁をいただいている人々の立ち位置やさらされている状況を理解できなければ、ニーズもウォンツもないのではないかと。

520円でとても薄い本で、「現代の日本社会を考える上での、ある一つの視点」をまとめてくれています。
今の日本の形、日本の形に影響される家庭や仕事の行く末を考える時。そもそもの社会の形の成り立ちや変遷を知っておくことは、きっと私たちの助けになるはずです。
いま私たちは運命と宿命という川にいて、川上から川下へと水が大量に流れている。その水面に浮かぶ泡が、私たちだとしましょう。
泡の我が身としては、いつ自分という泡は消えてしまうのか戦々恐々というところです。
泡は水面に浮いているので、自分の行く末は川の勢いに任せています。自分で泳ぐことができません。
とある場所にポッと宿った命である泡は、川に運ばれる命でもあります。ポッと宿ったその生まれた場所・時間と、この先どのように自分が運ばれていくのか。橋の上から見る視点があれば、“すこし先に岩があるから”“あちらは よどんでいるから”と準備することができるかもしれません。

さて、本の内容を、さらに雑にまとめてみます。
日本は特殊な状況で経済発展をとげ、現代までたどり着いているそうです。さらに、戦後以降の日本を時代別に分けると、人口も分けられてしまうとのこと。

戦後の高度成長期 安定期 低迷期
団塊世代(1947生まれ) 団塊ジュニア世代(1972生まれ) 団塊JrJr世代

戦後に団塊世代が生まれ、彼らは高度成長を支えました。そのジュニアは安定期を。JrJrは閉塞感ただよう現代を生きています。
これだけ上手いこと分けられることができるのは、理由があるのだそうです。それは、

会社・家庭・教育の循環がとても上手くまわっていたから。&各領域の進化が同時に行われたから。

会社→家庭:会社勤めのお父さんが、家庭にお金を(安定雇用サラリーマンお父さんと専業主婦)
家庭→教育:良い学校に行ってね(高校進学の準義務化・大学進学率UP)
教育→会社:良い会社に入ってね(生めよ増やせよモーレツサラリーマンを供給)

それぞれが太いパイプとして機能していたからこそ、高度経済成長と安定期を経ることができました。しかし、“→”のパイプが太かったからこそ成り立っていた循環だったため、どれか一つでもパフォーマンスが落ちてしまうと成り立たなくなってしまいます。
たとえば終身雇用制度の崩壊・教育への意識の家庭間格差・少子化によって、会社・家庭・教育の循環から外れる層が大きくなるのでした。公的機関のセーフティネットも薄いです(子どもがいる家庭ほど生活保護費が下がるetc.)。

・・・などなどこの本には書かれております・・・

では、会社・家庭・教育の循環社会が破綻しつつある現代、どうすればいいか。
一方的で高い供給があったからこそ成り立っていた形を変えるしか無いとして、双方向を薦めています。
会社←→家庭:ワークライフバランス、男女の共働き
家庭←→教育:学校や児童保育が、家庭を支える居場所になる(例:多世代の人のつながりを育む地域の“えんがわ”をつくりたい!(辻 義和(ネクスファ)) - READYFOR?
教育←→会社:ふたたび教育を受けて、会社に戻ってくる
もちろん、会社・家庭・教育の中身そのものや、社会全体を薄く守っているセーフティ部分・アクティベート部分など、考えるべき箇所は多いです。

それぞれに活動をされている方々がいらっしゃるわけですが、お寺という地域と人に根ざす者として、どのようなことが出来るか。お手伝いできるか。これからも考えていきます。

【レポート】お坊さんのための海洋散骨クルーズに。

11月7日の金曜日、「お坊さんのための海洋散骨クルーズ」勉強会へと行ってきました。
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海洋散骨。

【海洋散骨】
漁場や航路を避け、おおむね海岸から10km以上離れた場所で、粉末化した遺骨を撒く方法。わたしたちのように船舶でおこなう方法と、ヘリコプターで沖合いまで飛び、空から撒く方法があります。
海洋散骨とは?|海洋散骨・手元供養のブルーオーシャンセレモニーより

ご遺骨をどうするか。お墓へとお納めすること=“ふつうのこと”とされていますが、現代においてはいわゆるお寺や保守的な人による考えです。
「墓地埋葬等に関する法律(略して埋葬法)」といったルールや、「節度をもっておこなうならば違法ではない、という法解釈」「節度に関する業者による自主的な規制」といったマナー。
海洋散骨における色々な動きが、現在も起こっています。そのひとつが、今回の僧侶向けの、ブルーオーシャンセレモニー様主宰の勉強会。代表や発起人の僧侶の方と知り合いでしたので、お誘いいただいたのでした。ありがとうございます!
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内容は、海洋散骨についての説明と、なぜこのような活動をはじめたか?という代表からの想い(詳しく知りたい方はコチラの御本をどうぞ-お墓に入りたくない! 散骨という選択)。
さらに、実際に行う儀式やセレモニーのデモンストレーション。お骨を海へと撒いてしまうと、遺族の手元に何も残らずに寂しい・・・といった意見も、海洋散骨にはあるようですが、手元供養・お墓参りの定期便など選択肢を示すフォローなども忘れません。
また、お骨と一緒にお花を海へと散らしていくため、お花が水面に広がっていく様子がとても心安まります。
なにより、墓石といったモニュメント・象徴がないので帰って来られない不安感もあると聞いていましたが、その問題もクリアーする方法があるとも知りました。

そして、これまで散骨された方々への慰霊のための合同法要。わたしを含めて多くの僧侶が同乗し、みなさんでお勤めをいたしました。
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百聞は一見にしかず。多くを学びましたが、なにより自分が保守的な考えにすっかりはまっていたことに気付き、驚きました。海洋散骨も、ご遺族が親しい先に逝った人の遺骨をどうするかの選択肢の一つではあるかもしれないと考えてはいましたが、心の奥では認めていない自分を発見。
今回参加したことによって、なぜ認めていないのか?といった点について一定の答えを得ました。ただし、それはお寺を守るための論理についての意識にすぎず、海洋に散骨することにおける問題(大きさや散骨する場所など配慮しているからといって、お魚さんが食べるかもしれず、連鎖として我々も食べるかもしれない、という心情)(母なる海ならまあいいか、といった思考停止)(漁師さんなど海をなりわいとしている方々の気持ち)(本人や遺族の想いなど)に対してではありませんでした。
宗教者として、散骨について学びことで、よりよいご供養を考える大変良いきっかけとなりました。
陽岳寺として、臨済宗として、海洋散骨をどのように対面していくか、まだまだ勉強中の身であります。
家のお墓、個人のお墓、永代供養墓、三界万霊塔、土葬、火葬、樹木葬。多くの送り方があります。

散骨を勧めるような、誤解を招かれかねないブログとコメントいただきました。ありがとうございます!まだまだ勉強中の身です。水や海や川との因縁の深い陽岳寺。ふかく考えていきたいと思います。

その本に出会ったのは、息子の命日だったんです。

http://www.flickr.com/photos/35237092540@N01/6935367227
photo by Pete Prodoehl

ユリウス・カエサルだったか、「人という生きものは、見たい現実しか見ない」とは有名な言葉です。
本屋で目的の本の両隣にある全然違うジャンルのものを買ってみる。そんな行為をしていたこともありましたが、もうその本の内容は記憶にはありません。

わたしの部屋に仏教書ばかりが積読されていく昨今。世に言うスピリチュアル系も手を出してみようと思いました。

人は死なない ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索

人は死なない ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索

人は死なない?ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索?

人は死なない?ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索?

都内のお寺さんですと、ひとつやふたつ“ゆかりの品”や“伝説や言い伝え”というものを持っていたりします。“都の旧跡”もしかり。
陽岳寺も言うにおよばずで都の旧跡があります。土日は門があいていることもあり、たまに江戸検定散歩ですとか旧跡散歩の方々がいらっしゃいます。集団であろうとも、個人であろうとも。

そんな中、ふらっと中年の女性がいらっしゃいました。
話を聞いていると、彼女は四国の霊場巡りもされたり、ボランティアに精を出されていたり、なかなか殊勝なことをされているご様子。どこかで陽岳寺にある旧跡のことを知り、訪ねて来たのでした。
そうなんですね・・・・・・と話を聞きながら私は彼女の顔のうしろへと目がいっていました。かならずご自身の肉親をゴール・原因にされている、話の決着点・終着点にされるのでした。そのことに私は冷静さを取り戻さざるえなかったのです。

わたしが未熟者であるため、あまり「そういった」方と出会うこと・お話しすること(立ち話でしたが)・・・・・・ということはありませんでした。西の方ではよくあるのではないかと他人事な日常です。
なんというか、あまり「そういった」話はいたしませんよね。この中年の女性は、よく話してくださった、という風にも思いつつ。いままで私が出会ってきた人々も、話しても信じてもらえない・いぶかしがられることを恐れて、ふつうのコミュニケーションをしていたのかもしれません。
 
 
理屈ではない。
霊性の体験は、ことばで説明することのできないことです。ならば、言葉や理屈の世界から、霊性の世界を垣間見ている業界を考えてみればいいのかと思い、本をさがしたのでした。

最近になって、わたしは『大切なことは二度も三度も、何度も言っていい』のだということを多くの人々から学びました。
マイブームというと無礼のようですが、ちょうど本のなかでその『大切なこと』を見つけたので紹介したいと思います。
登山家メスナーは、いっしょに登山していた弟が雪崩に巻き込まれたと知りますが、探しきれず、後に言います。

弟の死を克服するために、彼の死を僕の生命の一部であると考えるまでには、何年もの歳月を必要とした。

冷徹で、強い意思をもつ人間の言葉としても心に刻みたいし、また同意したい。

さらに別の話ですが、砂漠の民がその砂中においてある存在との対話をするように、彼もまた山中にてある存在との対話をしていました。
ただし、対話の対象としてのある存在・人の死後についてなど、分からないことは分からないものです。そこが究極なのでしょう。
 
 
彼女はいくらか話し終えて、帰っていったのでした。
自身の自信を確認できたからか、わたしと共有できたからか、勝手に満ち足りたからか・・・・・・は分からないままです。