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カンロニン:用法用量を守って正しくお使いください

I will be able to teach zazen, the sitting-meditation, to everyone in English.都内にある禅宗寺院の中の人。仏教、イベント、本、教育、組織、アナログゲームなど、日々考えていることを綴ります。現在仏教になじみのある方、まったく興味のない方、みなさまに読んでいただけたら幸いです。

ボツネタ【コラム】見えない絶望

メモ

ボツにしたものです。

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ピンとくる/鼻につく

メモ

ほぼ日刊イトイ新聞 - 吉本隆明のふたつの目。
お坊さんとして話すとき、ふつうの人としての視点や立ち位置を忘れてしまうときがある。
積み上げてきたり、専門のことを調べているんですよ、というニオイのようなものが出てしまう。
かといって、ふつうの人に寄りすぎると、それはそれで。

商売としてのお坊さん、人生としてのお坊さん、ふつうの人。この3つのバランスが大事なのかなと思いながら、考えております。

平成

メモ

anond.hatelabo.jp
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まさしく平成的、と言っていい質問と答えではないだろうか。
経済成長や人口増があたりまえに“素晴らしいゴール(大昔では、素晴らしいという単語の意味とは、ものすごくヒドイ、というものだったと聞く)”であり、ギラギラしたものに目をくらまされることこそ至高という昭和にくらべ(これまた“素晴らしい”思い込みと決めつけではあるが)、
ダメなのは分かってます、ダメなのは分かっていますが、それでも、こんな私はどうでしょうか?と承認欲求をいかんともしがたい人間に対して。同じようにゴタクを並べて、手取り足取り優しく、さとりきった諦めの視線を提示するだけで押しつけではない・・・と言わんとするアンサー。

なんにしても、自分で考えて、自分をとらえなおして、自分できめて、自分でみとめないことには、いわゆる“先にすすんでいる”と他人には見られないのでしょう。

ゴール・終わりへの着地のしかた

メモ

http://www.flickr.com/photos/70323761@N00/5816865932
photo by wallyg

あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。

昨年末の朝、文化放送の生放送に10分ほど出たのですが(大変有り難いことです)、墓参される方に「出てらっしゃいましたか?わたしは朝ラジオをつけているんです」と何度かたずねられました。
言葉だけで伝える難しさ、生放送という緊張感、など色々なことがありました。とても勉強になりました。年の暮れに、めったにないご縁をいただきました。ありがとうございます(福井謙二グッモニ 12月28日(月) 第715回 - 福井謙二 グッモニ)。


ラジオでもお話ししたのですが、お寺ボードゲームというものを作りました。「お寺の文化をボードゲームに。」ということで、ご家庭で遊べるお寺・仏教を考えています。お寺の文化や仏教を題材に・・・ということで、実生活やリアルとつながるように努力する必要がございます。
ほかにもお坊さんがゲームを作って良いのか?など色々と悩む部分はあるのですが、とりあえずそこのあたりは屁理屈こねながらもクリアーしていると思っております(03お寺ゲーム | ようがくじ「不二の会(ぷにの会)」)。


第1弾が「御朱印あつめ」と申しまして、「参拝・写経をだすことで御朱印をあつめ、組み合わせをつくる」ゲームでした。
神社仏閣にお参りをして御朱印をいただく、そんな行為がブームになっているのですけれども、みなさんはこのブームご存じでしょうか?
陽岳寺は観光寺院ではございませんし、となりのえんま堂さまの方が有名ですので、そんなにいらっしゃいませんが、たまに「御朱印おねがいします」と参拝者がいらっしゃいます。そんな御朱印の周辺をながめていて、このゲームを思いついたのでした。


そしていま第2弾を考えているわけですが・・・とても良い作業になります。
それはどういう意味かと申しますと・・・、お寺や仏教の周辺についてゲームに落とし込む作業というのは、自分なりにお寺・仏教を解釈&分解&構築するということです。

  • どのようなゲームであれば、楽しんでいただけるか?
  • ゲームを作るならば、ただ遊ぶだけではないものにしたい。しっかり現実とリンクしているか?
  • どのような思い・順序で、お寺に関わる人々は動いているか?
  • テーマ、ルール、コンセプトがお寺・仏教とマッチしているか?

などなど、よく考えることとなります。ちなみに、そのお勉強は血となり肉となり、法事での回向や護寺会便りに還元されていきます。


さて、お寺ボードゲームの目的・ゴールとしては、3つあり、

  • ご家族・ご友人たち同士で、ゲームを楽しみながら遊びながら、
  1. お寺・仏教の伝えたいこと(情報)を知っていただきたい。
  2. 悩んでいること(課題)を解決するヒントにしていただきたい。
  3. 個人の信仰を、その瞬間にいあわせたグループのものとしても体験していただきたい。

といったところを考えています。
いちおうの目的・ゴールがなければ、決めていくことができないものですから・・・。

ゲームというものには「終わり」があります。得点がいちばん高い人が、自分のカードが無くなったら、ゴールについたら、など。
ボードゲームのなかには、“いちおうの勝ち負け・終わり”はありつつも、遊んだプロセスに価値を置くものが多々あります。だれと遊んだのか、どんな逆転が起きたのか、いつどのような集まりだったのか。
遊んでオシマイなのではなく、勝負の最中&勝負がついた後にこそ、そのプロセスが光るようです。もちろん勝負の行方あってのこともありましょうが。

どこか人生のように思えなくはないでしょうか。死んでオシマイではない。どのように生きたかに焦点をあて、遊ぶところがです。そのあたりも私がボードゲームにひかれる所以なのかも知れません。はてさて、ことしのゴール・終わりへのプロセス、また着地の仕方はどうなることか。ご用心ご用心。

声が届いているか

メモ

togetter.com

>貧困でご飯なんて作れない。
>割高かも知れないけど、買うという選択肢しか取れないほど、日常が辛い。


<大丈夫!こうすれば自炊できるよ!!

以前、コピーライター養成講座に通っていたとき、課題として出された問題がありました。
「早起きするコピーをつくりなさい」

早起きしたくなるコピー。
この一言、この一文を読んだだけで、早起きする。
そんなコピーをつくりなさいという宿題でした。

といった答えが出ましたが、先生から「それではダメだ」とつぶしていきます。それでは早起きはしない。「直接的に早起き」とは繋がらないではないかと。ワンクッションおく必要などないし、それでは課題は解決できないだろう。人を早起きへ動かせない、声は届かない。

で、けっきょくこの講座のときに生徒から“よいコピー”は出ませんでした。そして、例として、先生がおっしゃったコピーが、

  • 冷蔵庫に、あなたが大好きな朝ごはん、用意したから

(的な感じのもの)でした。


さて、貧困でご飯なんて作れない。買うという選択肢しか取れないほどの状況だと・・言えるだけの体力があったとしても。
こうすれば大丈夫だ、では意味が無い。そして、“こうすれば”というワンクッションでは届かないのだろう。


制度があっても、利用できない現実は、なんとかしないと。我慢大会などする必要はないのだから。

スクラップアンドビルド方式

メモ

子どもが生まれて3ヶ月。
「そして父になる」という映画があったけれども、このタイトル、フレーズがふとしたときに思い出される日々である。

そして父になる。
あの映画は2013年製作で映画館にて鑑賞した覚えがあるが、当然我が子は生まれていない。影も形も。
フクヤマ演じる父親は、6歳になる我が子が(故意に)他の家の子どもと取り替えられていた事実を知る。向こうの家族と交流をしてみたり、お泊まりをしてみたり、「我が子」と話をしてみたり、紆余曲折があって、そして父になる。というストーリー。


時代時代によって、家族の形や姿、理想というものは変化していく。変化するからこそ、ドラマ、映画や小説などの表現が繰り返され続けるわけだが、ひるがえって私の家族はどうだろうか。
たとえばバブル期、たとえば戦後、たとえば戦前、たとえば江戸時代。参考意見として各時代の家族像のおはなしは見るかもしれない。たとえば映画、たとえば小説、たとえば演劇。参考意見として各エンタメの家族像のおはなしは聞くかもしれない。
ただ、表面上のこと(こういうお話しの家族アリかもね)はそのままでは参考意見にはならない。もっと深い部分こそ参考意見とするのが適切であろう。


そして父になる、のおはなしを今思いだし、フクヤマ演じる父親に自分を投影してみる。感情移入してみる。どのようなことを思っていただろうか、感じていただろうか、妻や「我が子」と話をしていただろうか。
映画では、フクヤマ演じる父親は、取り替えられていた事実をつきつけられてからの紆余曲折によって、自分は父親としての役割を果たしていなかったのではないか?と疑い、父親になる=「我が子」を受け入れる、と私は理解している。
それはつまり、自分にとっての家族像・父親像・父親の役割などといったものを作りあげていた意識が。自分のこころが、妻の気持ちが、家族が、アイデンティティが、仕事への意義が、「何不自由のない生活」も、いったん壊されている。
そうして紆余曲折をへて、父になることを再びビルドされていったのではないか。


「我が子」サイドからこのストーリーを見れば、自分が親だと思っていた人たちに一度捨てられる話でもある。
捨てられるのかな、捨てられるのかもしれない、そうした気持ちを持つことは大変な痛みを伴う。まして子どもだ。高層マンションの一室に核家族で暮らす無菌培養な「我が子」には、衝撃はすごかったであろう。
しかし、父親にとっても、「我が子」の将来にとっても、この事実は必要なことだったと映画は見せているように思う(もちろん取り替え事件など起きてはならないが)。お泊まりをさせられる家族は、もっと雑多で、もっと地元色が強く、家族も色とりどり、荒波に揉まれても生きる雑草たちを象徴とされていた。
なにかが起きたときに(たとえば取り替え事件)、へこたれず、しぶとく生き抜くためには。一度自分を壊すか、捨てられるか、捨てることを自覚する必要がある。そうして再構築するというプロセスを取るのだ。・・・体力があればの話だが。


体力があればの話ついでに、たぶん、もうひとつ必要な材料はあると思う。
それは、まわりの視線だ。
血縁だけでは親子であることの証明にはならない、とこの映画は提示している。紆余曲折、延滞が大事だと。この紆余曲折のなかに、まわりの視線が必要となるのでは。
むかしは社会や地域が家族を育てていた、といった文脈を紹介されることがある。つまるところ、視線によって及ぼされる影響が大事なのだ。「彼らは家族だよね」という認識をひしひしとまわりから感じさせられ、「そうか、やはり私たちは家族なんだ」と自分が納得するかのために、まわりの視線が必要なのだ。
こうして、家族ってのはこういうものか、家族のなかでの自分の役割はこれかな、「これが家族なんだ」という意識がビルドされていく。


ビルドする仕組み、壊す仕組み、持ちこたえられるだけの体力や社会的リソース。家族とは、体力や社会的リソースそのものなので、家族自体のスクラップアンドビルドは大変なことだ。
ロールモデルとなる家族像をさがすのに必死で、付け焼き刃になったり、新しい家族の形を作り直すことも出来ずにそのままなことも多い。そしてふとしたときに愕然とする。しかし、その愕然としたときこそチャンスであり、まわりからの支援も必要となる意味でも、まわりの視線は大事と言っていいだろう。


一度バラバラにして、また作りあげれば良い。家族の形にケチがついたと思うのは間違いなのだ。

犬より猫派?

03_お寺のこと メモ

陽岳寺には檀信徒専用のワンちゃんネコちゃんのお墓があります。
お骨をお納めする志納の目安・・・というのが、ちょっと手が届きにくいのかなと思っています。このワンちゃんネコちゃんのお墓には、普通の御家の墓石とは違うところがありまして。
それは、「プレートを貼る」のです。名前やいつ亡くなったのかを刻んだ手のひらサイズのプレート。さらにお願いすれば、ワンちゃんネコちゃんの顔写真を点描法でうまーく表現できるのですね(いい写真を必要とするのですが)。このあたりを石屋さんにお願いするところに、まぁちょっと手間賃というか・・・。

犬より猫派?

さて、今日テレビを拝見しておりましたら、「ネコ」をテーマにした特集が放送されていました。
ネコカフェ、ネコのシェアハウス、ネコのアプリが流行しているとか。
http://www.flickr.com/photos/28145073@N08/6672148713
photo by Moyan_Brenn

ペットロス(ワンちゃんネコちゃんを亡くした喪失感、悲しみ)という言葉が知られるようになった昨今。自分の子どもや家族のように、家で飼っている動物を扱うことが当たり前である、と考える人が大変増えてきたということなのでしょうね。
家で飼っている動物たちといえば、犬、猫、鳥、魚といったところでしょうか。その筆頭は、犬や猫(H12参照、H22参照)。それなりの大きさ、表情があること、知性(反応してくれること)が理由と考えてみましょう。

内閣府の動物愛護に関する世論調査(H12参照、H22参照)によれば、ペットとして飼われている動物には、犬が6割だとか。
わたしの個人的なイメージでいえば、「日本人が飼う動物といえば、犬」。
ただテレビの特集では、ネコという選択肢もあるんだよ、流行しているんだよ、と言っていたわけで・・・。


なぜネコなのか?そこには、わたしたち人間による、家族の形や一緒にいてほしいペットへの期待感の変化・・・が関係しているのかな?と考えてしまいました。
これもまた私見ですが、犬へのイメージと猫へのイメージが違っており、その違いが時代の変遷にマッチしているのではないかと。

家畜化の歴史と、「私たち人間にとって、どのような存在でいてほしいか」という期待感

愛玩動物としての犬ではなく、仕事を一緒にしてくれるパートナーとしての犬の歴史(牧羊犬、アナグマを狩るため、荷物の運搬や警備など)、同様にネコのパートナー化の歴史(猫の家畜化)。それぞれを見てみると、犬は人間が飼いならしてパートナー化したけれども、ネコはネコ側から人間と共存を図ってきた文脈があるらしいと取ることができそうです。
主従関係を人間側から求められてしまった犬は、愛玩動物としての素質がありありと想像できます(忠犬ハチ公など)。人間の手によって守ってあげたい、人間の私たちを守ってもらえる。人間にとって都合よく、どちらの役割も果たすことができる犬。そんな犬は、仕事のパートナーからペットとして幅広いニーズに応えてくれるのでした。

しかし、ペットという存在に対して、現代の私たちは上記のような役割ばかりを求めなくなりました。なぜならば、ペットを飼うというのは大変だからです。たとえば、散歩。たとえば、グルーミング。
猫といえば、犬よりは、世話のいらない動物というイメージが先行してあります(もちろんそんなことはなく、トイレなど世話は大変です)。


テレビの特集では、シェハウスのなかで人間よりも、自由勝手に猫が歩いておりました。パソコンの上をヒタヒタ、壁をカリカリ。かといって人間の様子もうかがいつつ、ちゃんと自分のことを気にしてくれているかチェックする。あまり過干渉がすぎると嫌がってしまう。そんな猫。
なにか、現代人の気質と似ているなと。
現代人の気質と似ている猫に、私たち人間は暮らしのパートナーを求めるのではないかと。
cakes.mu


決めつけのすぎるお話でした。しかし、そんなカメラ撮影の視線をテレビの特集に見てとれたものですから・・・。猫とともに暮らしたことがないので想像もすぎるのですが、そんなイメージ。
猫寺なんて、どうですかね。